人気ブログランキング | 話題のタグを見る

※ヒューマンドキュメントストーリー【20】

◀ B G M ▶ ⇒ 【 Endless Rain 】
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_13412022.jpg

※A Certain Human Story  『 That time Those days 』

Part 10、 《・・・・・ ・・・・ ・・ 》・・変 わ り ゆ く 流 れ ・(1) 


話しの流れが少しばかり、前後する・・
そう、長男が生まれた 
1970年(昭和45年)の頃に、また戻る

そのころ
結婚後初めて買った白色のホンダN360ccは、肝心要なエンジン、足回りはもとより全てが調子よかった
が、車検期限が近づいていた
思い切って、長男の誕生を機に買い換えることにした
やはり馴染みである、鶴ゲ崎の矢田モータースで買うことにした
モータースに寄って、店の主人である「おばちゃん」と話し適当な車を探して選んでもらうことにした
この店は、何事にも「おばちゃん」が全面的に実権を握っていた
旦那さんは元、競輪の選手だが話しべたなのか、人が苦手なのか、口数が少なくおとなしいタイプのおじさんだ
いつも住み込みの若い衆と共に、青いつなぎ服を着て、黙々と修理などの仕事をしていた
顔が合い目が合うと、恥ずかしいのか、自分からそらす人だ

だから必然的に、商談や金銭管理は皆、おばちゃんが対応していた
「こんちわー」
「あんら めずらしいぃ やっとかめだね~」
「どうしとったぁ? ほんでも元気そうじゃん」
「んん」
「ほんで きょうわ 何ー?」
「んん 冷やかしだよ ほんでも なんか いい車がねぇかな~と思って」
「なんか いいのあるかな~」
「ある ある あんたに ちょうどいいのがあるよ」
そんなこんなで、話しは直ぐに決まった
今度もホンダの車で、これで三台目になる

決めたのは新たに発売され人気を呼んでいたZ360cc
ボディがオレンジ色で、シートはブラックのレザーでツードアータイプのスポーティカーを選んだ
ホイールの四本のタイヤ部分は、黒色に塗りつぶしてもらった
軽四ながらダッシュ力もよく、力強いパワーが凄くあった
燃費はやや落ちたが、それでもℓ当たり18kmは延びた
新しく買い換えたオレンジカラーのスポーティカーは
車高も低く、ツードアーだが乗ってみると中は思ったより広く感じた
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_18555652.gif
西尾に住んでいた、寺西さんが飼っていたコリー犬をもらった
寺西さんは胃が弱く10才以上も年上だが、おとなしく人の良い人だ
一才にもなっていなかったが、やはり大型犬だけあって大きい
門の隣の納屋に、一坪半ほどの犬小屋をつくった
半年ほどで日々の面倒が見切れず、名古屋の人にやってしまった

そんな晴れ渡った店の休みの日
高浜の地産ボールに、義母の千代と義妹の美春も連れて家族揃ってボーリングに行った
勝也はマイボール、マイシューズを持っていた
手元で書いたスコアーが、拡大されて上部に映し出されていた
勝也は慣れたもので、どのゲームも180ほどのスコアーを叩きだした
腹の底から真剣になって楽しんで、ワーキャーッ!と奇声を挙げていた
楽しげに、家族のみんなで一緒に遊んだ時間は、足早に過ぎていった
帰りに、新たに出来た高浜の寿司屋に立ち寄り、舌鼓をうった
穏やかで、幸せな日々が流れていた

おなじころ、また勝也は有給休暇をとった
店の休みを利用し
三重の鈴鹿市山本町に所在する
椿大神社(つばきおおかみやしろ)に祈願に行った
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_140916.jpg

御祭神 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
御神徳 開運招福/家内安全/交通安全/厄除け/商売繁昌/進学修業等
家内安全、交通安全、事業繁栄等にご利益がある
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_13591381.jpg

猿田彦大神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の道案内をし、天照大神の宮を伊勢に選定し、土地を献上した神といわれている
その容姿が天狗に似ていることから、天狗信仰と結び付けられる事が多い
創建は大和時代と伝えられ、全国2500社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮だ
境内には祭神の墓といわれる陵や、天磐船が降臨したといわれている御船磐座(みふねいわくら)・万病に効く薬水といわれる金龍明神の滝、松下電器の創業者・松下幸之助氏が寄進した茶室「鈴松庵」などがある
鈴鹿山脈の高峰入道ヶ嶽山麓に鎮座。延喜の制(10世紀初)大社に列した古社で、全国の猿田彦命を祀る神社の総本宮とされ、猿田彦信仰は道開きの神として全国に流布、庚申信仰や道祖信仰などと習合した場合も含め、各地で親しまれている
①狛犬は初めて見るタイプで、57㌢高の中型ながら、とにかく豪華な髪と尾が圧巻で、丁寧に彫られた豊かな毛筋は柔らかく流れ、やがて折り重なるような渦へと収束する
石造狛犬としては頭部が小さく、スマートさが際立って、さらに足下の盤が極端に小さく、四肢がはみ出さんばかりだ
黄色みを帯びた石肌も美しく、全国でも屈指の優品と見受けられる
しかし明治38(1905)年にして、は早くも亀裂や剥離が見られ、出雲式と同様に砂岩製の宿命に殉じようとしている
②狛犬は大宝神社型だが、標準的なそれとは趣を異にし、アウンとも口が大きく、唇の形も独特でオリジナル(木製)の精悍な体型とは対照的に、ごつごつした筋肉の盛り上がりが目立つ造形だ
顔立ちにも愛嬌があり、ステレオタイプになりがちなこの様式の中では個性ある一体と言える
③は末社鈿女(うずめ)本宮のもので、天鈿女命(あめのうずめのみこと)は岩戸開きや天孫降臨で活躍した女神で、のち猿田彦命と結婚して伊勢に赴いた
芸能の祖神としても有名で
狛犬は花崗岩製で、派手さはないものの、よく見るとなかなか端正で、程良い肉付きの肢体は均整が取れていて、安定感があり、髪の毛筋もやや彫りが浅いとはいえ、すっきりとした仕上がりで、尾はきれいに開いた七葉の扇形をしている
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_1363013.jpg

1971年の(昭和46年)夏が来た
弥生のお腹は、二人目の子供の妊娠8ヶ月目を迎え貫禄を持ってふくよかだ
義妹の美春も、早や高校3年生になっている

夏休みの一ヶ月間を利用し、単身、アメリカにホームスティに行った
いつ、段取りをしたのだろう
大胆ともいえる行動力と、予想だにしなかった視野の大きさに正直驚いた
いったいこの子は何を考えているのだろうか
そして
何を感じ、何を掴んでくるのだろう
家族に相談もせず、一人で裁断し進めていった
ある意味、立派だ
そして、夢を叶えて旅立った
美春が居なくとも、何ら変化や影響はなかった
それだけ、義母だけが美春を溺愛し独占して私物化していたのだ
あっ! と言う間に月日は流れる
にこやかで元気に、美春は帰ってきた
何かを掴み学んで体感し手ごたえを得てきたかのような、フレッシュな輝いた顔をしていた
よかった・・
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_1384160.jpg

1972年(昭和47年)
まだ寒い、冬の二月だ
大手の得意先に一ヶ月間、組長層が体験実習として行くことになった
課の山本雅央さんの予定だったが、車の免許が無く通勤が出来なかった
他の組長層の岡田くん、栄くん、林さん等は、ていよく逃げて断った
急遽、班長の立場ながら、代わりで行くことになった
さほど抵抗も無く生身でできる体験は、むしろ興味深々だった

さすがに天下に名をとどらかせる、挙母自動車だ
本社工場は、数ある工場の中でも、一番古くからある建屋で歴史を感じた
勤務時間も、平常の8時から17時で、2時間残業を加え19時までだ
夜勤だとか、時差ではなくホッとした
職場に、女子の姿は微塵もなかった
完全な、男社会である

現場実習は、クランクシャフトの鍛造素材からの切削加工ラインの工程だった
エンジンをピストン運動に変え、伝える部品だけ有って材料も高価なもので重たい
いきなり10台近くの機械を任された

ラインリーダーらしき人が、マンツーマンで数回教えてくれただけで指導と訓練は終わった
ぎこちない動きながらも、即、実作業が始まった
機械など直接稼動させたこともない
機械から機械へと、追い追われるように単調な繰り返し作業がつづいた
高速で回転し、数台の機械からモーター音がうなりをあげる
不良品を造って損失もかけられない

恐怖感がわいた

技能は殆ど不要で、主な作業は部品の機械への着脱と定期的な品質チェック、時間毎の出来高数の記入だった
手に負えない異常が起きれば、ラインの上にあるヒモを引っ張ると直ぐラインリーダーが飛んでくる仕組みだ
が、考えている余裕や暇などは微塵も無い
話す相手も居ない
工程は一人作業だ
秒単位で、目の前の作業にぼわれた
不思議な本能が働く
時間単位に設定された出来高数を一個でも多く上回って作ってやろうという意識だ
基準の数字に負けたくない
上回りたい
自分が出来る人間か、間に合わない人間かを評価されているような錯覚に陥る
変な意地とプライドがわいてくるのだ
立ち作業のままで単調なサイクルでの歩行の繰り返し、慣れない仕事で体が疲れた
休憩タイムは10分間づつ、午前と午後に一回あった
この時間と昼の休憩時間以外にはトイレにもいけない
トイレも近くには無く100m以上は離れた所にしかなかった
数日が過ぎると、まるで自分が機械に操られる人間ロボットになったような気がした
作業効率がよく付加価値生産性が高い
徹底してムダ、ムラ、ムリが探求されていた

はじめの数日間は、腹が減って昼飯が美味しく沢山食べられた
一週間ほどが過ぎると、体が堪えてきたのか食欲もなくなった
通勤時間は片道二時間は、みておかなければならない
何度も途中で、交通渋滞に巻き込まれる
少し遅れると、車を止める指定場所の駐車場での駐車スペースも、早い者勝ちでなくなる
日当たり四時間以上が、通勤時間で消化されてしまう
朝は5時に起きて食事を取り出かけ、夜は2時間の残業を終え寄り道もせず、21時近くに家に帰る

風呂に入り晩飯を食べ終わると直ぐ床に着きバタンキューで爆睡の毎日だ
それほど体は疲れきっていた。

女子の体力では、とても務まらない
職場に、誰一人として女子が居ない理由が、肌でわかった
挙母自動車は最大手の会社で、給料もボーナスも良かった

が、倍や10倍もらっても嫌だと、勝也は思った
それほど、肉体的に悲鳴を上げるほど過酷だった
プレス職場の人たちは、殆ど両手のうちのどれかの指を何本も落として無くしていた
足を切断された人も、いっぱいいた
死亡事故も、過去は多発していた
安全な 職場づくり・・
遠いものだと、安易に、考えていた・・

先頭を走る、大手企業の努力は血が出るほど凄まじい
傍目には、良いところばかりが写るが・・
中に飛び込むと、半端ではない

とことん頭をひねり、人間の知恵を絞りだしていた
乾いたタオルを、なお絞って カラカラに絞りぬくように・・

異常なほどの徹底した、ムダ、ムリ、ムラの排除と、効率の追求
強い精神力を兼ね備えていないと、容易には立ち向かえない
反発も反論も、凄い
それをも跳ね返し、超越して、逆に巻き込まなければならない
その基本は、やっぱり人だ!
どんな戦略と戦術、やはり人術がベースとなっていた
生き残るためのサバイバルと、
他を引き離し抜き出るための発掘トライ挑戦はまさに命がけの勝負ごとのようだった
斬新な手法とアイディアを取り込んだ、生産方式
とにもかくにも、あみ出したものを冨士の裾野まで徹底的に浸透させ、定着させようとしている
凄い!
ある意味の独善的傲慢さが、恐ろしく怖い!
そんな凄さを、生身で感じとっていた
上辺だけを、安易に偏って見てはいけない
裏に隠され、秘められている部分が桁違いに斬新で 偉大
まるで、数学か化学のように
生産現場にまで、試み、取り入れた
独自の方式と手法を編み出した、軍団のパワーと凄さだ
指導を受け持ってくれたスタッフから、
特別にプロジェクト活動時代にまとめ上げたという貴重なノウハウの詰まった資料をもらった

実習の最終日
独自の生産方式をあみ出したといわれる、大野専務との懇談会があった
どの会社の実習者も、こそばゆいほどのベンチャラを並べ立て、あれこれと褒め称えていた
気持ちが悪いほど、みえ見えだ
そんな懇談会が、延々とつづいていた
教育体験実習の会社と工場を代表して、加藤敏郎工場長の代わりで能毛次長が来た
現場に掲げられている工程管理の、不良品のチェックの内容のことについて鋭どく質問をしろと言う
あまりに急き立てるので、仕方なく手を挙げ質問した
白髪の短髪刈りでチョビ髭を生やした顔が、みるみる茹蛸のように赤くなって怒ったような口調で言い放った
やはりみかけ通りの、独裁的で頑固な匂いのする、気の短い独裁的資質のチョビ髭親父だった
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_1392094.jpg

やっと、話しが流れに沿って戻る

1972年(昭和47年)・・春

義妹の美春も高校を卒業し、今年は大学に入る
三重の教育大学を熱望していた
しかし、家を離れての生活に義母の千代は猛反対をした
険悪な空気が張り詰めた、日々が流れた

確かに、若干18才のうら若き娘を、単身で他県に住まわすには親心としては心配だ
家から通える、県内にある愛知教育大学を薦めた
結局は、渋々義妹の娘の美春のほうが根負けし折れた形となった
美春の学力値からいって、いとも簡単に合格した

が、本人は夢を断たれ不満でいっぱいだ
挫折感と、打ちひしがれた無気力な顔
をしていた
何よりも正直に、目が物悲しく訴えていた・・
何故、執拗に県外を切望したのかわかる気もした
異常なほどに過保護で溺愛する、義母千代の一方的な押し付けの愛が重荷で負担なのだろう
解放されたかったのだろう
本人の希望と意に反した、押し付けの選択
渋々ながらも、大学生として通い始めた
これでいいのだろうか・・
これからが心配だった
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_139571.jpg

会社では、デミング賞実施賞受審に向けた日々
そんなとき
在所の本家、良雄さんのところの長女のミチコが鷲塚の名取不動産の倅、勝彦と結婚していた
勝彦は勝也と学校は違うが、年は同じで同年になる
いつもニコニコしている、女のような優しそうでおとなしい奴だ
西尾の市民信用金庫に勤めていたが、結婚を契機に行員をやめて親子で不動産業を営んでいた
ミチコは2才下だが京都の短大を出て名古屋の不動産専門学校に通い、宅地建物取引主任資格の免許取得を目指し通っていた
勝也は、大学の第二法商学部に通いながら、昭和42年に既に免許を取っていた
父親の良雄さんの強い勧めで、30万円ぐらいの高い費用をかけ、わざわざ名古屋の専門学校に半年ほど通っていた
その専門学校で、偶然出会い知り合ったらしい
勝彦の、ぞっこん一眼惚れだった
同じような近いところの地域から、片道一時間以上も電車で乗り合わせ、同じところに通うため若い男女が毎日顔を合わせていれば、至極当然の成り行きでもある
本来、ミチコは嫁に行くような育てられ方はされていなかった
それほどに父親である良雄さんは、ミチコを溺愛していた
世の中は面白い
予想外にことが動き、回ってゆく
子供もまるで勝也たちと同じように、男の子と女の子の二人が居た
生まれた年も性別順もお同じだった
ここの家から、1.5kmほど離れているが、車で5分とかからない近いところで、子供たちが通うの小学校も同じだ
春が終わるころ・・
ミチコが嫁いだ家の、地つづきで負債を抱えて倒産した、鋳造所の跡地を安値で買取り、整備し五軒の二階建て店舗併用住宅を建てていた
そのうちの一軒には美容院が入るという
弥生は店に来るお客からその情報を聞きつけた
悔しがって怒りを露わにした
古くから長年やっている自負心が許さないのだろう
いつまで経っても興奮は治まらなかった
亡くなった義父を引き合いに出し「お父さんが生きていたら絶対に許さないのに、何とかしてくれるのに」と愚痴をこばした
在所の良雄さんにも、無理を承知で、お願いをした
止む無く名取不動産の勘一さんの家に伺い「自分たちがやりたいので貸してもらえないか」と無理なお願いをした
が、既に手金を受け取り仮契約が取り交わされていた
しかし工事は着手されていなかった
強引に押し通し、仮契約をキャンセルし無かったことにてもらった
即座に本契約を結び、賃貸契約書を取り交わした
一階の店と、二階のアパート分を含めて
 月の家賃代が、3万7千円ほどだった
先に不動産免許は取ってはいたものの、大家と店子の間になった
通りから四軒目、奥から二軒目で二階は住居アパートになる
1軒目が肉屋で天婦羅屋、二軒目が寿司屋、三軒目が化粧品屋、そして五軒目が喫茶店だった
寿司屋以外には、二階のアパートで生活していなかった
化粧品屋の高須夫婦は、新婚さんで一色方面から通っていた
旦那さんは真面目そうで、若奥さんは透きとおった綺麗な人だった
喫茶店はダンプの運ちゃんらしき人の奥さんがやっていて、夜には主人も手伝いに来ていた
店舗の工事は、
世話になった
在所の良雄さんが営んでいる太陽建設に頼んだ
概略図面は弥生と相談しながら
勝也が描き、その素案図に基づき設計してもらった
只のような150万円ほどだけの、超格安値段で全工事をやってくれた。


豊新工場で二才年上だが連れで一緒だった室谷さんの奥さんは、岡崎でマコ美容院の名で店を開いていた
兄のようにいろんな面倒をみてくれていた

勝也が工場を移動する少し前に泰広さんは会社をやめて、
今では美容材料の販売と各店など受注・配送配達の仕事をしていた
数日後の休日の昼間、室谷泰広さんに、家にまできてもらった
嫌な顔もせず、気さくに来てくれた。

カタログと意見を聞き、参考にして店の備品や器具類を頼んだ
儲けなしで見積もってくれ、すぐさま手配してくれた
本当にタダのような、儲けの出ない驚くような値段でやってくれた
本来なら300万円ほどはかかるであろう新規の店の用品を・・・
感謝、感謝だ
この有難い気持ちを、忘れてはならない
内装のクロス張りなどは、カーテン、クロス張りなどを商売でやっている初美姉ちゃんに頼んだ

ミラーなどは、スズキガラス店で買い
連れがやっている木工所で専用マシーンを借り
コーナー部をR形状にデザインカットして自分で4枚分作った。
風呂も一階の店の奥のトイレの反対側の部分を利用して作った
幼い子供を二人連れ、荷物を運び住居を移動した
階段を上がった二階のアパート部分は押入れと、六帖が二間とキッチン、トイレのスペースだ
端と端にしか階段はなくその都度外に回って上り下りしなければならなく不便だが構造上当面は仕方がなかった
そんな不自由さよりも、目の前の出来事と希望に燃えていた
新しくオープンする店の名前を付けた
” ビューティ フジクラ ” と名づけた
電話番号も、ゴロ合わせした番号を局から買い取った
自分たちの手で、ついに待望の店を構えた
小さくとも、一国一城の、あるじになった
在日韓国人の男性美容師も、近くの八百屋の離れの部屋を借り、住み込みで雇った
つづいて、近くの団地に住んでいる高校を出たばかりの恵子ちゃんも通いで勤めだした
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_1741101.jpg

また夏が来た
1972年(昭和47年)7月19日 水曜日 夏らしい快晴の日に華々しくオープンした
当然ながら、義母が手伝いにきてくれた
近くにはマンモスな高層市営住宅鷲塚団地が何棟もでき、県外出身者やら新婚さんやらで住民が急増していた
お陰で店の経営も繁盛し評判よく軌道に乗った

1973年(昭和48年)
新たな生活の拠点となった、鷲塚地域で始めて迎える正月だ
親子四人で始めて鷲塚神社にお参りに行った
矢作川が流れる、上塚橋の河川下にあたる細い旧道の場所に神社はあった
ここの地域の神社が、こんな所にあるとはまるで知らなかった
四月から、南碧保育園に二人の子供を同時に入園させた
上の也門が1才11ヶ月、妹の麻有は5ヶ月だ
乳離れもしないのに可愛そうな気がしたが、仕事の都合上面倒が見られない
親の心配をよそに、二人の子供たちは保育園に行くことを楽しみ喜んでいた
大家である名取不動産のところのミチコ夫婦もまったく同じ条件で二人の子供が居た
真似をするかのように、同じ保育園に通い始めた

そして、ついに四台目になる大型自家用車を工場の隣の浅丘自動車で中古で買うことにした
浅丘自動車には幼いころの遊び相手
隣の家の式ちゃんの兄さんであるキョウちゃんが勤めていた
今は独立して家業のコンロ窯業をやめ、兄弟みんなで自動車整備工場を開いていた
男の子が四人、女の子が三人
隣の神谷さんの家は、まったく似た家族構成だった
ただ単に、工場の隣にあったから関心をもっただけだ
目を引いたのは
薄黒色のメタリックを施したクラウン2,000ccだ
中古のベンチシートでハンドルレバーだが、クラッチペタルのあるマニュアル車でなく馴染みの薄い高価で希少なオートマチック車だ
中古車だがやっと高級車が持てるようになった
クラウンに乗って運転していると気分もいい

また7月の、夏のシーズンを迎えた
店の火曜日の休みを挟み、東名高速を通り、弥生、也門、麻有を連れ始めて家族全員が揃って、一泊しながら山梨県山中湖村平野の富士五湖の河口湖、 西湖、精進湖、 本栖湖 とあるが一番大きな山中湖巡りに行った
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_1311238.jpg

インターを降りたものの、明かりひとつ見えない御殿場の夜道の山道奥に迷い込んでしまった
一時はどうなるかと焦ったが、Uターンしてなんとか元の道まで戻ることができた
山中湖にある、予約しておいた会社の保養所に泊った
山中湖荘は、車一台がやっと通れるくらい狭い路地に面した意外と小さな民宿じみた宿だった
平日のせいもあって、人は空いていた
が、子供たちははしゃいで喜んだ
湖でボート遊びをした
翌日は、富士急ハイランドで遊び、背の高い若手の東宝の映画俳優の倉本巧とすれ違った
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_145395.jpg

雄大な富士山のふところに抱かれた山中湖は
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_1481027.jpg

日本屈指のリゾートスペースとして脚光を浴びている
東名高速を安全運転で走り、楽しいドライブ旅行は無事に終わった

冬に近い秋の日の夕方
田豊工場の緑風荘で、青年層の社長との懇談会が開かれた
工場単位で、一人づつの参加代表が選ばれた
温もりのある、和室で開かれた
司会進行役を務めた副社長の田豊稔さんの手の指には、大きな指輪がはめられていた
話題が、グアム島から 「恥ずかしながら帰ってまいりました。 」奇跡の生還を果たした、元日本軍兵士横井正一さんに及んだ
勝也には、戦争時代が遥か遠くのものに焼きついていた
男らしく責任を取っての自決を、日本男子の美学として抱いていた
「めめしくて みっともない」と、思ったありのままの感想を率直に述べた
冷静に考えれば、当事者の複雑な心中をも察しない、非情な言葉だ
そのせいか、バチがあたった
懇談会の帰り道で、自損事故を起こした
雨がしとしとと、パラついていた天候の日だった
昼間には東名高速道路で数台の玉突き事故が発生し、何度もラジオのニュースで流れていた
馬鹿な奴が居るものだと、あざ笑うようにニュースを聞いていた
夜には、自分が事故の憂き目にあった
一瞬の、出来事だった
帰り道で信号の悪戯からパトカーとパトカーの2台に挟まれ、ノロノロ運転に嫌気が差し西端の脇道に逸れ、早や廻りしようと運転を焦って走った
蒲鉾状の穴がポコポコ空いた、昔ながらの細いカーブがありうねった家並木の道路だった
ハイドロブレーン現象で、ブレーキとハンドルが利かなかった
水上を走っているようなもので、タイヤが浮いてしまっていた
気がついたときは、電話線の電柱が真っ二つに折れ曲がり、電話線がダラーンと垂れ下がっていた
回りは、暗闇だ
道路脇を、見渡した
人が倒れていないか心配だった
頑丈なクラウンの、フロント部分のエンジン部がみごとに凹んでいた
エンジンを痛めつけたら、もう車もパーでオシャカだ
フロントガラスに頭を打ったのか、頭を触ると少し膨らんだボクが出来ていて少しだが手で触ると血がついた
さすが頑丈なつくりのクラウンだ
フロントガラスが割れていたら、首を突っ込んで即死か重態だった
ハンドル部に胸を打ったらしいが少し痛い程度だった
シャフト部分に胸が突き刺さっていたらと思うとゾーッした
一秒の何分の一かの出来事で、神のみぞ知る運、不運としか言いようがない
これが、何回目の命拾いだろう
悪運の強さに、我ながら驚いた
※ヒューマンドキュメントストーリー【20】_d0093573_13114658.jpg

溺れるもの 藁をも掴む
目には見えない、守護神と守護霊に感謝した
近くの家に入り電話を借り電電公社に報告し、西端荒井町に住んでいる姉の節ちゃんの家の隣にあるモータースにも連絡し、早急に車を処分するよう頼んだ
近くにある西端の吹上住宅には、妹の好恵たちが光宗くんと結婚し住んでいた
妹の好恵が、すぐさま事故現場まで来てくれた
好ちゃんの住む住宅まで、こんなことがきっかけで始めて行った
そこで家庭用救急箱を持ってきて消毒し、メンタムらしき薬を塗り応急的な手当てを受けた
着ていた衣類も、まだ新調して作ったばかりのライトグリーンに黒のストライブの入ったダブルの背広だったが、ところどころ引き裂かれたように破れていた
左の足の膝も、打ったのか少し痛みが出てきた
始めて、自分の衣服が受けた損傷と、体の傷に気がついた
病院に行くことを拒み
好ちゃんに、店のある鷲塚の家まで送ってもらった
3.5kmほどで着く、10分も車でかからない
二階のアパートのドアーを開けると、弥生が、驚いて顔色を変えていた

二人の幼い子供の、也門と麻有が
 気配や 仕草で、わかるのだろうか
 あどけない顔をしながらも、不安で心配そうに覗き込んでいた
 
  子供の 顔と 表情は、正直だ
  目に ごまかしが、ない・・
  微妙な変化を 見落とさない
   
    だから・・ こちらも 嘘が、つけない・・
    例え ついたとしても
    それは みごとに 見破られている・・
    子供の純な こころの目は 決して ごまかせない・・










・・・・・・・・

それからは、いろんんなことが・・・・・・・・・・・・・













・・・・・ **

くちなしの花 通りゃんせ仁義 わかれ花 あじさいの雨 あいつ みちづれ~





























  by raymirainya | 2007-02-01 13:59 | あの時あの頃10-1

<< チェ・ジウの最新韓国ドラマ ※ヒューマンドキュメントストー... >>

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE