二人の女優の ステキなエコライフ
女優の高樹沙耶が、千葉の南房総半島の海辺に近い山の中腹に、昔、段々畑だった荒れ果てた土地を、200坪、三年前に購入した
坪当たりの単価は安く、4万5千円だったらしい
その荒れ果てた地を、泥だらけになって、汗を流し、開拓した
幼いころに親が離婚し、貧しい生活の中、母の女手1つで育てられた
17才で上京し、運良く映画の主役に抜擢された
そのときの主役の名前を、芸名にしたらしい
人気が出て、テレビのトレンディドラマの主役がつづいた
反面、不倫愛に落ちていき、きらびやかな生活三昧を送っていた
が、心が満たされず荒んでいた・・
自己探求の人生の旅路・・・
ハワイから離婚して帰国してから、随分とあちこち探し回って選び抜いた、こだわりのところだ
九州のエコで有名な建築設計士に相談し、意見、構想を述べて、最終的に決断した
そして、昨年末に土地の整備をしなおし、コンクリートの基礎を打って、オリジナルの家を建てた
勿論、エアコンや冷暖房設備などは設置されていない、太陽のエネルギーと自然の風を利用し工夫して、アイディアを万タンに取り入れた、夏は涼しく、冬は暖かい、地球に優しいエコ設計の建物だ
家の横では、畑を耕し、その地下に生活排水などのホースを埋め込み、無駄のない循環システムを用いて、再利用しリサイクル方式を取り入れている
自然と地球に優しく、迷惑をかけない考えだそうだ
だから、何事も自給自足でまかないたいらしい
ピザ焼きの竈もつくった
近隣の人たちが、いつしか野菜や、採りたての魚など材料を持ち寄るようになったという
3階には、夜空と星空の見える寝室
外のバルコニーには、露天風呂
倖わせって、答えは案外こんなところにあるきがする
あの、工藤夕貴も似てる
ハワイで結婚し幸せに生活し住んでいたのに、ハリウッドを諦め切れずアメリカ本土に単身渡ってしまった
ハリウッド映画で活躍していたのに、結局は離婚し帰国した
同じように、土地探しをした
富士山が見えるところに決めた
彼女も自分ですべてをやりこなしてしまう
大工仕事から、インテリア、ペンキ塗り、レイアウトまでを・・
そして
静岡県の富士山麓に、家を建て、敷地内にカフェもオープンさせた
畑で野菜を栽培し、なんでも自分でやりこなす
地域住民との触れ合いも、忘れていない
彼女らの共通点
・静岡
・結婚、離婚
・子供が居ない
・ハワイ在住の結婚生活、そして離婚
・自然、海、山、畑、農業
・エコライフの考え方と自然との共生
・男仕事を自力でこなす
・土の匂いと、海や山を愛する
・開拓精神
・汗みどろになって、飾り気なく働く
・贅肉がなく筋肉質な、鍛えられた体
・目が活きている
・肌が鍛えられバネがある
・軽トラックを運転する(車・荷物運び・小回り・生活ツール・・・)
・普段は、薄化粧か化粧をしない
・ジーパン
・汗
・太陽、自然、緑、恵み、感謝、自然体、感謝、自己愛、ゆとり、ゆったり・・
・俳優(女優)
・実行力、行動力
・ライフスタイル
・自然への尊重と愛情
2007年6月25日(月)・・曇り・・23℃(ジメジメ指数高い)
・・・高樹 沙耶(たかぎ さや、 1963年8月21日 - )は、静岡県浜松市出身の女優
本名は益戸育江(ますど いくえ)
実家は、浜松市内で「すずき布団店」を経営している
学歴は、浜松市立追分小学校卒業⇒浜松市立北部中学校卒業⇒私立誠心高等学校(開成館高等学校)中退
中学の後輩に女優の鈴木砂羽、オートレース選手の長谷晴久、中学の先輩に歌手のキーボーなどがいる
17歳のとき上京
東京都立青山高等学校に編入し、モデルとして活躍(所属はオスカープロモーション)1983年に映画「沙耶のいる透視図」で主演として映画デビュー
映画の主人公の名前 「高樹沙耶」をそのまま芸名にした
1998年、シンガーソングライターの中西圭三と結婚するが、2000年に離婚
その後ハワイに移住
成瀬グループにてヨガを習う
2002年、フリーダイビング競技の日本大会で水深45mの日本新記録を打ちたて、同年11月、ハワイで行われたフリーダイビングW杯で自己の持つ日本記録を更新(水深53m)
個人では4位、総合で2位の銀メダルを受賞
朝日放送製作・テレビ朝日系「朝だ!生です旅サラダ」の海外リポーターをたびたび務め またスクーバダイビングインストラクターでもあり、スキンダイビングなどの講習とツアーを開催している
17歳でデビューし、がむしゃらに走り続けた20代
女優として着実にキャリアを積んでいく一方で、30歳を迎えた頃から「東京での生活に違和感を感じ始めた」という
圧倒的な大自然の力に出会い、先住民族の人々とのふれあいを重ねるうちに彼女がついに見つけた「本当にやりたかったこと」
以前、ハワイ島で新たな一歩を踏み出した、彼女のライフスタイル
1983年、映画『沙耶のいる透視図』でデビュー。以来ドラマ、映画、舞台と女優として幅広く活躍する一方、旅番組や撮影旅行で世界中を訪ねる
写真家としても活躍、年1回のペースで写真展を開催している
スキューバダイビングのインストラクターと小型船舶一級ライセンスを取得し、2001年7月よりハワイ島へ移住。現地でドルフィンスイムツアーを主催していた
ハワイと東京を往復するかわたら、ワールドカップ出場に向け、フリーダイビングの猛トレーニングもしていた
その後、53メートルも潜った
2002年、ハワイ島で開催されたフリーダイビングW杯
女子の日本新記録
そのダイビングを始めたきっかけは、イルカとの出会いだった
何か、イルカに特別な力があったのでしょうか
自然と出会うリポーターの仕事は、それまでにもたくさんあったと思うが・・
20代のころは女優をメインにしていたので、リポーター的な仕事は実はあまり経験していなかった
プライベートでは、リゾートなどによく出掛けていた
オーストラリアでのイルカのセラピーが、自然と出会い、初めての取材だったわけだ
メンタルな部分や、エコロジーがテーマになるような仕事という意味では、最初の大きな出会いだった
デビューして以来、芸能界でがむしゃらにがんばってきましたが、30歳を境に東京という街に居心地の悪さを感じるようになり
女優としてキャリアを積んで、今までの経験で覚えた技術を使っていけば、そこそこ豊かな生活はしていける
けど、虚構の世界を生きていることが何か違うような気がして…
もっと「今私は生きている」というリアルな実感を味わいたいと思うようになった
考えるようになったきっかけは、旅番組で海外に行かせてもらうようになってからで
極寒の北欧で美しい世界に出会ったり、世界中の先住民族の人々とふれあったり
そんな体験をするたびに、自然の中で生きる姿ってホント美しいなって思って…
都会にいると何でも自分の力で動かせてしまうと思うけど、大きな自然の中にいると自然を制しようとは思わなくなる
自然と共存する暮らしは厳しいし、何もない
でも何もなくても、ずっと心豊かに生きているんですよね
高度成長のまっただ中で育って、新商品が出たら買い換える、ファッション=ブランド的な世代
だから先住民族の言葉一つ一つがものすごいショックで
生きていること、それ自体がものすごい奇跡なんだということが、頭ではなく細胞全体で実感できた
そして、何かが開いた瞬間があった
ももっと自然をリアルに感じられる生活がしたい
その感動をたくさんの人に伝えられる仕事をしたいなぁ考えるようになって
その答えがハワイ島に移住することだったらしい
が、結婚、離婚をし、帰国した・・・
・・・工藤 夕貴(くどう ゆうき、1971年1月17日 - )は、昭和後期・平成期の歌手、女優。
歌手の井沢八郎の娘として東京都に生まれ
1983年、渋谷でスカウトされて、芸能界デビュー
TBS「ザ・ヒットステージ」で小堺一機相手にアイドルをメッタ斬りする毒舌小学生で話題になり、その後ハウス食品の、チキンラーメンタイプの袋麺「303」(さんじさんぷん(3時3分)、サンマルサンとも)のコマーシャルで「お湯をかける少女」として人気者となった
日立製作所のMSXパソコン、「MB-H1」の雑誌広告にも出演
デビュー後の数年間、井沢の娘である事を公表せずに、芸能活動をしていた
夕貴曰く「名が知られている父の娘として活動すると、『親の七光り』のように見られるかもしれない
自分の力で仕事をしていく為に、敢えて公表していなかった」と言う
1984年、石井聰亙監督の「逆噴射家族」に出演し、注目を浴び
また、この映画の挿入歌「野生時代」で歌手デビューも果たした
同じ頃、文化放送「ハッとミラクルアイドルナイター」で中学生パーソナリティとしてラジオデビューし、メインパーソナリティ扇一平アナウンサーとの絶妙の掛け合いが大きな話題を呼んだ1985年には、第1回東京国際映画祭のヤングシネマ部門で大賞を受賞した相米慎二監督の「台風クラブ」に主演し、若手実力女優の地位を確固たるものにした
1990年、今井正監督の遺作となった「戦争と青春」に主演し、ブルーリボン賞主演女優賞を受け
また、1989年、ジム・ジャームッシュ監督の「ミステリー・トレイン」に出演、初ヌードも披露して以来、海外作品への出演も多く、代表的な作品に「ヒマラヤ杉に降る雪」、「ピクチャー・ブライド」がある
1995年にハワイ在住のサラリーマンと結婚した
しかし、3年後には離婚した
2005年には、地球ゴージャスのミュージカル「クラウディア」に出演し、新しい魅力を印象付けた
これは、本田美奈子.(故人)が、急性骨髄性白血病で芸能活動を休止することになった際、代役として工藤夕貴が引き継いだものだ
元俳優で現在クラブDJの工藤正貴は弟だ
母は井沢と離婚を経て現在は工藤の所属事務所ヒラタオフィスの社長桜井良樹と再婚している
2007年1月17日に父・八郎が食道癌で逝去
奇しくもその日は、夕貴自身の誕生日であった
現在撮影中の「ラッシュアワー3 (2007年・アメリカ)」で、ジャッキー・チェンと真田広之との共演が予定されている
日本公開は、2007年12月の予定
アイドル歌手としてデビューする際、非常に高額のプロモーション費用が投じられたことが、そのままプロモーションの一環として喧伝された
同様の例にはセイントフォーなどがある
ただし「高額プロモーション喧伝アイドル」の多くは、歌手として大成していない
工藤も歌手としてよりも俳優(女優)としての活躍の方が著名だ
井沢八郎の娘であることはしばらく秘密にしていた
井沢が不倫騒動を起こした際に、父の行為に呆れた旨の反応を見せたことがある
同じ工藤姓であることから、本田美奈子.と親類ではないかという噂があったが、夕貴サイドは否定している
アイドル歌手としてデビュー後間もない時期は、舌鋒鋭く本音トークを行う気の強いキャラクターだったが、ある時期から急におしとやかなキャラクターに変化を遂げた
人間的な成長と見る向きもあるが、むしろアイドルとしてのキャラクター付けのため路線変更した(演技していた)と見る向きも多い
アイドル時代とされたデビュー後数年間、工藤自身は次第に「何か違う」「私はこのままアイドルとしての芸能活動を続けて良いのか?」と考える様になり、葛藤していたと言う
トーク番組内で「ボランティア活動をしたいと思う」と発言し、共にゲスト出演した杉良太郎から「若いのに立派だ」という旨の言葉を受けていた。
「わたしはあきらめない」にゲストとして招かれた時、スカウト・デビュー前の小学校高学年時代を振り返り「一時はいじめによる深刻な悩みで辛い日々であった」と告白もした
ハリウッドを中心とした映画女優の修行や撮影等を通して相応レベルのアメリカ英語をマスターした経験を基に、2005年に「英語でしゃべらナイト」出演
同番組内のコーナー「パックン英検」では、MCのパトリック・ハーランですら感心する英語の実力を示し、喝采をあびた
日本人が不得意・苦手とする「r・R」の発音について、工藤流の発音習得方法を披露
これらを機に、番組本にて英語についての連載を手掛けている
2007年にも出演し、番組内の特設コーナーにて押切もえ等と共に、英語で会話しながら料理を作る「楽しみ」を、視聴者に披露した
アメリカに住んでいた頃、中古住宅を手ごろな値段で購入し、リフォームして再び他人に売った所、デザインや機能性が素晴らしいと言った理由で、元値の数倍もの価格で買ってくれたという
デザインは無論、屋内のちょっとした改築も自ら図面をひき、一人で「悪戦苦闘」したとか
自虐的に「私、女優やってたんじゃなくて、『土地転がし』をしてたんですよ」と発言して
共演者を笑いの渦に巻き込んだ
かつての海外映画作品のオーディション応募・選考には、本人が選考会場に出向き、面接や演技を審査員に見聞きさせるスタイルであったが、近年では実績のある俳優の場合ビデオテープ等による応募も可能になってきているそうで、徐々に住居・活動拠点を日本国内にシフトさせていった
現在は静岡県富士山麓に移住し、自宅の隣りに「カフェ ナチュラル」というカフェもオープンさせた
・・・そんな、素晴らしい二人の生き方に、なにかしら共通点を感じる・・・
人生の、酸いも苦いも知った女性
トップの座に有りながらも、トップランナーをしようとしない
優しく、あたたかく、穏やかだ・・
地域住民の方たちと触れ合い、助け合い、楽しく笑い合って
自分に素直に、ムリしないでエンジョイしてる
羨ましい限りの、ステキなライフスタイルだと思う。。。。。
by raymirainya | 2007-06-25 09:31 | 独 り 言(つぶやき)